ルーツの旅

ルーツの旅

世の中に溢れる様々なもの、の中から気になるものを拾い上げてそれのルーツをたどります。

不安とミニマリズムの旅

ここ最近、断捨離にはまっています。

 

断捨離という言葉は、もうそんなに真新しいものではありません。(流行語に選ばれたのが2010年)

一周回って覚えてない方のためにざっくりご説明すると、

 

断=入ってくるいらないものを断つ

捨=家にはびこるガラクタを捨てる

離=モノへの執着から離れ、ゆとりある“自在”の空間にいる私

 

と定義づけられています。これ以上の説明をする気になれないので、今このタイミングで改めて詳しく断捨離のことを知りたい方は提唱者(やましたひでこさん)のサイトをご参照ください。ページトップでいきなり登録商標について厳密に記載されていてシビれます。商標関係で断捨離できないような苦い経験が過去あったのでしょうか。

 

ただ捨てるだけではなく「執着」から離れるという部分に、この言葉が当時あそこまで流行した理由があるとは思いますが、どうしてモノに執着してしまうのでしょう。

ということを考えた時にパッと思い浮かんだのが、「不安」という感情です。

 

僕らは日々多くの不安を抱えて生きています。

 

今現在まったく不安がない人も、この先いつその状況に陥るかわかりません。そういう意味での不安を含めると生きている限り全ての人が抱えているといっても過言ではないと思います。過言だったらごめんなさい。

 

その中でもモノに対する不安ってとても多くて、それが二度と手に入らないんじゃないかという不安、それを持ってないと周りの人についていけなくなる不安、それを持っていないと将来困るんじゃないかという不安、、、きりがないです。そんな色々な不安を解消するために、人はモノを買い、来るかもわからない未来に備えているのではないでしょうか。

 

ではモノを買えば不安から解放されるのか。

 

僕はそうは思いません。購入した瞬間は満たされるのかもしれないですが、おそらく3日も経てばその気持ちは薄れます。下手したら忘れます。そしてその間にも次々と不安の波が押し寄せてくる。そしてまた別のモノを購入する。の繰り返しで、どんどんモノが溜まっていく。かたや購入したらしたで今度はそれを手放すことに対する不安も押し寄せる。そんな不安のダブルパンチでもうくたくた。そんな状況が目に見えます。

 

2010年頃の日本で暮らしていた人たち(当時の自分含め)にも、おそらく不安を解消するための消費による疲労感がつきまとっていたんだと思います。だからこそ起こったであろう断捨離ブーム。2018年現在も自分の中でつきまとっているのが怖い。

 

断捨離とよく似た概念で、「ミニマリズム」もこのところ(僕のアンテナがその方面に向いているからかもしれませんが)よく耳にします。知り合いを探したら一人くらいはミニマリストもいるのではないでしょうか。

 

ミニマリズム(minimalism)

完成度を追求するために装飾的趣向を凝らすのではなく,それらを必要最小限まで省略する表現スタイル。 1960年代に音楽・美術の分野で生まれ,ファッションにも導入された。ポスト・モダンと相反する概念。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

 

すでに1960年代にあったスタイルなんですね。知らなかった。

音楽・美術の分野で生まれた概念が他分野のファッションや今でいうライフスタイルなんかに波及してるのも面白いですね。

 

昨今よく聞くミニマリズムは「=持たない暮らし」と認識されがちですが、どうやらそうではないみたいです。なんでもかんでも手放すのではなく、あくまで「必要最小限」のモノを「持つ」ことが前提になっているとのこと。

持ち物を100個に制限する!ということではなく、それが100個でも100000個でもその人にとって必要最小限であれば、それはそれでミニマリストと呼んで相違なさそうです。(巷で見かけるミニマリストの方々は本当にストイックにモノを減らされているので、結果的に持たない暮らしのように見えなくもないですが。)

 

最小限まで極端にしなくても、なるべく自分に必要なモノだけを持つ。

これが先に挙げた不安を解消する術なんじゃないかなぁと、ほんのり思います。

 

そしてそのためにはまず自分には何が必要で何が不要かを知ることが大切。

(昔見た笑う犬の生活小須田部長を思い出します。懐かしい。)

 

かの老子の言葉に「知足(足るを知る)」というものがあります。

あらためて身の回りを意識してみても面白いんじゃないでしょうか。

 

ミニマルな文章を書けるようになりたい。まずは。

貨幣と夢の旅

僕は関西生まれの関西育ちです。

 

関西人(というか大阪人)の印象というと関西以外の方からはあまり良いイメージを持たれていないのだろうなあという変なコンプレックスがあります。声が大きいとか言葉遣いが汚いとか、押し付けがましいとか。

特に、大阪人はお金に関する話にはとても敏感です。近代以降、大阪は商人の町として成長してきた背景があるので当たり前といえば当たり前なのですが(関連して、中沢新一の『大阪アースダイバー』という本は大阪の地理と文化を歴史的側面も含めて分かりやすく読み解いており、おすすめです)、お金の話には何よりも食いついてしまうのが大阪人の特性です。

実際、土曜日の朝に放送している関西ローカル番組「せやねん!」は時事をバラエティ的に切り取る手法として「お金」を一つの切り口としており、15年以上一定の視聴率を獲得している長寿番組となっています。

 

ところでお金って何でしょう?

 

お金(貨幣)の歴史は古く、古代メソポタミア、インド、中国、エジプトなど、多くの代表的な文明で金銀を素材とした貨幣が鋳造されていたそうです。

大まかにいうと、貨幣は1929年の世界恐慌以前と以後に分けられます。

世界恐慌以前は、金や銀との交換を前提とされている(あるいは金や銀そのもので貨幣が製造されている)兌換(だかん)通貨が主でしたが、それ以降のトレンドとして、先進国の多くは貴金属との交換ではなく「貨幣の発行主体(国)への信用」だけがその貨幣(通貨)の価値を担保する不換通貨を採用するようになりました。

 

では、現代におけるお金の価値とは?

 

お金は食べられませんし、寒さも凌げません。千円札とか一万円札とかをたくさん集めて燃やせば束の間の暖は取れるでしょうが、多分そのお金を握りしめて電器屋でも行った方が、よっぽど賢く冬を越えることができます。

つまり、別に貨幣自体に物質的な価値があるわけではなく、「もはやなぜだかよく分からないけれどお金があれば生きることや贅沢することに必要なものを手に入れられる」という「共同幻想」を世界中の多くの人が当然のように受け入れて、生活のルールとして過ごしているわけです。

何かの宗教みたいでちょっと不気味ですね。

 

現代人が抱える共同幻想の呪いはお金に限ったことではありません。

「勉強ができた方が偉い」「コミュニケーションが苦手なことは克服されるべき欠点だ」「走るのが早いとかっこいい」「趣味がない人生なんて退屈だ」−そして「夢を持たねばならない」。

 

「努力で夢は叶う」なんて幻想です。小学校の授業では低学年から「将来の夢」というタイトルで作文を書かせます。そのときから「これ、夢とか言ってるけどたぶん叶わないよなあ」って内心思っていたのは僕だけではないと思います。

そのくらい、「たぶんこれは叶わない」と自覚してしまっていても、大それた夢を「きちんと」持っている風を装わないといけない「夢病」にこの国は長い間冒されています。

 

夢なんてなくてもいいんですよ。

 

「私の夢は〜」なんて頭でっかちな書き出しで物語ろうとするから良くないんです。

明日はちょっと早起きしてモーニングに行こうとか、今週末こそ撮り溜めていたドラマを見るとか、今度あの子をご飯に誘おうとか、きっとそんなのでいいんですよ。

そうしたら、多分昨日とか先週の自分とは何かが変わっているでしょう?

 

夢が職業じゃなくてもいいんですよ。

 

何か自分が好きなこととか、得意なこととか、人の役に立てることを継続してできたりたまに飽きたりできる環境があれば、それでいいんじゃないでしょうか。

 

ジャンプするだけが少年ではないのです。


nadi

 

コンビニとデザインの旅

突然ですが、ローソンのロゴって書けますか?

(もしお手元にペンと紙と気力がある方は、ノーヒントで書いてみてください)

 

 

 

 

書けましたか?

 

 

 

 

書いた方もそうでない方も、正解を知りたい場合は「街のホットステーション」で検索してください。ミルク缶を書けた方は結構いるかと思いますが、下部の「STATION」まできっちり書けた方はどのくらいいるでしょうか。(僕は書けませんでした)

 

ちなみにローソンのロゴに白のミルク缶マークが使われている由来は、1939年に米国オハイオ州のJ.J.ローソン氏が営んでいた牛乳販売店「ローソン」にあるらしいです。ちなみにちなみにローソンの日本1号店は桜塚店(大阪市豊中市南桜塚)らしいです。以上余談です。

ローソンの歴史|ローソン

 

コンビニの看板に限ったことではないですが、なんとなくのイメージで視界の片隅には入れているものの、詳細な部分までは僕らは意外と認識しないものです。情報過多なこのご時世、パンクしないようにという脳の防衛本能かもしれません。

が、少しだけ注意をして視線を向けてみるといろんなことに気づくことができます。

 

コンビニロゴ繋がりですが、セブンイレブンのロゴ書けますか?

(もう書かなくて大丈夫です。頭の中でイメージしてください)

 

おそらく多くの人が「SEVENELEVEN」を脳裏に描いたかと思われます。いや違うよ!って方は教えてください。それが正解かもしれません。

 

正しくは「7-ELEVEn」、7は数字で最後のnは小文字なんです。(「いい気分」で検索してもおそらく出てこないので気になった方は素直に「セブンイレブン 看板」で検索するか最寄りのセブンイレブンに行ってください)

 

ルーツをたどる旅なのでなぜnだけ小文字なのか辿りましたが、これには諸説あるようです。一番メジャーなのは商標登録上(ELEVENだと申請が通らなかったので、最後を小文字にして登録した)の問題による説です。完全に雑学です。これを知っていればセブンイレブンの看板を見たときに自然とnに目がいくようになります。これを忘れても日常生活に影響は全くありません。

 

普段街中でコンビニを探すときに、なんとなく「青い看板=ローソン」「緑と青=ファミマ」「オレンジと赤と緑=セブン」ってざっくりと視覚的に判断している方も多いと思います。でも、コンビニに限らず世の中に溢れる看板のデザインにはそれぞれ会社が込めた思い、その会社のルーツがあって、それを意識しながら街中を見てみるのも面白いんじゃないでしょうか。

 

スタバのロゴ、書けますか?

お手洗いとメトニミーの旅

「お手洗い」

「鍋」

ホワイトハウス

「太宰」

 

何のことだかお分かりでしょうか。

「お手洗い」は「お手洗い」ではありません。

「鍋」はしばしば「鍋」ではないですし、「ホワイトハウス」は時折「ホワイトハウス」ではなく、「太宰治」が「太宰」ではないこともあります。

 

もう少し分かりやすくすると

「お手洗いを済ませる」

「今日の夕飯は鍋だよ」

ホワイトハウスが声明を出した」

「近頃は太宰を読んでいる」

これらに含まれる「お手洗い」や「鍋」はいずれも文字通りの意味ではなく、「それに近い何か」を意味しています。

つまり、済ませたのは手を洗うことではなく用を足すこと、今日の夕飯は鍋の中で煮込まれた食材、声明を出すのはアメリカの国政に関わる政治家、読んでいるのは太宰治が書いた物語のことです。

 

日本語にかかわらず多くの言語体系では「実際にはAではないもの」に言及することで「A」を表す手法が広く根付いています。その手法の中で、現実世界での「類似性」に基づくものが「メタファー」と呼ばれる(「花子の胸はまな板だ」)一方、時間的・空間的・因果的な「隣接性」に基づくものは「メトニミー」と呼ばれています。

 

先述した例文では「用を足す→手を洗う」という時間の隣接、「鍋→中の食材」「ホワイトハウス→中の政治家」という空間の隣接、「太宰→物語を書く」という因果的隣接をもって、齟齬なく意味が聞き手に伝達されています。

 

疲れてきましたか?大丈夫ですか?僕はちょっと疲れてきました。

 

ところで、日本語と比べると英語の方がこのメトニミーのもつ力が強いのではないか?というのが僕の持論です。それは、「移動」を表す言葉に注目すると明らかです。

 a. I went to school yesterday.

 b. 私は昨日学校に行った。

これらはどちらも正しい文として許容されます。

 

しかし、以下はどうでしょうか。

 c. I ran to school yesterday.

 d. *私は昨日学校に走った。

cは英語話者にとっては何ら違和感ない文なのですが、僕たち日本語話者にとってそれを直訳したdは少し引っかかりがあります。「〜に走った」の部分ですね。

 

これがなぜかということについては諸説あるのですが、僕はこれがまさに2つの言語間のメトニミーの力の差であると考えています。

つまり、英語では"run"という単語が「走る→移動する」という時間的(もしくは因果的)隣接性を使って"to〜"という目的地を持つことができるのに対し、日本語ではメトニミーの作用が弱いため「走る」という単語もただ主体が「走る動作をする」ということしか指示できず、「〜に」という目的地を持てない、という仮説です。

 

これは"run"と「走る」に限った差ではなく、英語では"swim"=「泳ぐ」や"waddle"=「よたよた歩く」といった動詞だけでなく、"dance"=「踊る」、"rattle"=「ガタガタ鳴る」といった動詞までもが「to 目的地」という形を取ることができます。

 

俳句や短歌をはじめ、実際には違うものの姿にあるものを重ねて表現するというのが日本古来の言語表現の優美さだと感じるものの、実際には逆に英語の言語文化の中で培われてきた、日本語にはない表現の妙というものがあるのかもしれません。

 

 

いよいよ疲れてきたのでこのあたりでお手洗いに失礼して、今日はここまで。

 

3とサード・プレイスの旅

サード・プレイス」という

自宅(ファースト・プレイス)でもない、

職場(セカンド・プレイス)でもない、「第3の場所」。

が、また一段と流行ってきている、気がします。

 

オルデンバーグが定義する“サード・プレイス”の8つの特徴
中立領域
サード・プレイスの構成者は義務感からそこにいるのではない。彼らは、経済的、政治的、法的に縛られること無く、喜んでやってくる。
平等主義
サード・プレイスは、個人の社会における地位に重きをおかない。経済的・社会的地位は意味がなく、ありふれていることが許容される。サード・プレイスでは参加するために、何も必要条件や要求がないこと。
会話が主たる活動
遊びココロや楽しい会話がサード・プレイスの活動のメインフォーカスである。会話のトーンは気軽で、ユーモア、ウィットがあり、優しい遊びココロは高く評価される。
アクセスしやすさと設備
サード・プレイスはオープンで、みなが訪れやすい環境。柔軟で親切で、集まる人のニーズにこたえるところ。
常連・会員
サード・プレイスは、常連がいて、空間やトーンを形成する。その場所らしさを彼らがつくる。新たな訪問者を惹きつけて、新参者にも優しいところ。
控えめな態度・姿勢
サード・プレイスは、健全である。その中には無駄遣いや派手さはなく、家庭的な感じ。偉ぶったり、排他的であってはいけない。いかなる個人、あらゆる階層の人を受け入れる。
機嫌がよくなる
サード・プレイスでの会話のトーンは、けっして緊張や憎悪を生んではいけない。その代わり、陽気でウイットに富んだ会話、気さくな冗談は歓迎される。
第2の家
サード・プレイスにいる人たちは、しばしばあったかい感情を共有する。あたかも同じ家に暮らす者同士のように。この場所に根ざしている感情を持ち、精神的に生まれ変わることを得る。

 wikipedia引用

 

新しい刺激を求めたり、

日常生活での摩耗の疲れを癒したり、

明日から戦う気力を取り戻したり、

向かう目的は人それぞれかもしれませんが

日々の単調な生活から抜け出すことを、

心のどこかで求めているんじゃないでしょうか。

 

昨日の今日で数字繋がり、ということでもないですが、

今回は「3」について色々と辿っていきます。

(「2」愛好家の皆様には大変申し訳ございません)

 

三種の神器」や「3C」など、なんとなく3つに纏めると収まりが良いイメージがあります。もはや収まりが良すぎて普段あまり意識しないけど、「御三家」「三羽烏」などなど、「3」のまとまりの良さを感じるケースは多々あります。「御四家」とか「五羽烏」だと、、ちょっと気持ち悪い。

 

じゃんけんやポケモンなどの「三竦み」(AはBに勝って、BはCに勝って、CはAに勝つ)という概念も、2だと強弱、優劣しかつけられないけど、3にすることでゲーム性がいっきに増します。(紙は石を包めるからグーよりパーが強いのは未だ疑問符ついてますが)

 

2だと少ないけど、4だと多い。その間の絶妙な数字。3。

 

その絶妙さ、気持ち良さを最も感じるのが「三原色」。光(赤、青、緑)でも色(マゼンタ・シアン・イエロー)でも良いですが、この3色の組み合わせでどんな色でも作り出せる「必要最低限」な数が、3です。

2色の組み合わせだとその中間色までしか作れないけど、1色加わることによってありとあらゆる色を作れる。この「補って完全になる」感じが、サード・プレイスとなんとなく重なる気がします。

 

「2」愛好家の皆様に追い打ちをかけるようで至極恐縮ですが、2と3の違いはまだまだあります。点を結んで「面(平面)を作れるか」どうか。頂点が2つだとどれだけ頑張っても線しか引けませんが、頂点が3つあれば平面が作れます。直線で結べば三角形です。直線で結ばない図形は書いたことがないのでわかりません。

 

僕らが生活しているこの空間も3次元(縦、横、高さ)ですね。x軸y軸(2次元)にz軸が加わることでそこに「奥行き」が生まれます。そういう「広がり」だとか「奥行き」だとかを生み出すための最小の単位というところでも「3」って絶妙に気持ちいい数字ですね。もう書いてる間にだんだん「3」のことが好きになってきました。明日から好きな数字聞かれたら「3」って答えよう。

 

冒頭でサード・プレイスに行く理由をつらつら書きましたが、

その根底には広がりや奥行きを作るためだったり、

不完全さを補うためだったり、そういうものがあるんでしょうね。

 

1の色は赤なら、3の色は何色だろう。

信号と赤と1の旅

 

「青は、『進め』だな?」

「そうだよ」

「赤は?」

「『止まれ』だよ。当たり前だ」

「はたしてそうかな」

 

という会話で始まるコントがあります。

はたしてそうなのでしょうか?

これ、少し間違っていて、青は「進んでも良い」という意味らしいです。

回りくどいですね。責任逃れも甚だしい。

けれども、赤はやっぱり「止まれ」です。赤はなんで「止まれ」なのでしょうか?

もちろん科学的にちゃんと理由があって、赤という色は光の波長が長いため空気中の他の物質(ホコリとか、チリとか)の影響をあまり受けずに人の目に届くから、「止まれは赤」らしいです。

うーん、くそつまらん。

じゃあ青(緑)は?オレンジは?ピンクは?白は?目に届きにくいの?どうなの?と言われると、正直あんまり実感が湧かないです。

「止まれ」が「赤」なのには何か別のひみつがある気がしてならないのです。

 

勘の良い人はなんとなく想像されたかと思うのですが、自然界の中にたぶん答えはあって、赤は燃える炎の色。このメタファーが人が有史以前から触れてきた「赤色」のルーツなのでしょう。

動物にとって住処である山や森が燃えているとしたら生命と生活の危機に直結するわけですから、赤は記号的に危険の象徴として十分な役目を果たすわけです。

実際、世の中の「危険信号」はそのほとんどが顕著に赤色をしています。

踏切、三角コーン、消防車、パトランプ、唐辛子、教科書の大事なキーワード、など。

あとお風呂場の水道の温度調節のハンドルとかにも40℃以上は赤色の矢印とかが引かれていますが、これは危険というより熱のメタファーかもしれないですね。

 

実はでも、ここまではまだそんなに面白くはなくて「ふーん」とか「まあそうだろ」みたいな話。ここからが本題で、何かというと赤色には「1」という数字のイメージがつきまとうのです。

 

長男であり主人公であるマリオは赤。ルイージは緑。

セサミストリートの主人公エルモは赤。ビッグバードは黄色でクッキーモンスターは青。

スーパー戦隊シリーズの真ん中は赤。(「男の子の色は青」にもかかわらず)

個人差はあるかもしれませんが、アルファベットの「A」に色をつけろと言われたら僕は迷いなく赤色にします。同じ理由で「あ」も赤色。

 

こう考えると、人は何かただならぬ執着を「赤」という色に重ねているような気がします。生物としてのテリトリーを脅かす存在であるにもかかわらずそのエネルギーを享受し文明として発展を続けてきた、火に対する人の畏敬の念がそこには込められているのかもしれません。

 

エネルギーというと、地球上のあらゆるエネルギーの源は太陽エネルギー、とは物理か何かの授業で習った気がします。

たしかに太陽は赤色…!というのは早合点で、太陽を赤色で表現するのは日本と一部のアジアの国だけだそうで、ヨーロッパほか多くの国では黄色で表現することが多いらしいです。実際、欧米圏の絵本やイラストなどでは太陽は軒並み黄色で表現されています。(アルゼンチンと日本の国旗を見比べてみましょう)

 

ううん、一筋縄では行かないな、赤色。

 

【導入編】ルーツの旅

イントロダクション。

 

初めましての方は初めまして。そうでない方は、、いるのかな。

シモダヨウヘイ(@shimotch)と申します。以後お見知り置きを。

 

早速ですが「ことば」って素敵だと思いませんか。僕は思います。

(冒頭から唐突にごめんなさい。ことば足らずとはまさにこのことで)

 

誰かに何かを伝えたい時、自分の感情を形にしたい時、知ってることを教えたい時、知らないことを教わりたい時、様々な場面で必要になってくるツール。そんな重要なものでありながら、僕らは度々ことばの使い方がわからなくなることがあります。あれ?こういう時ってどう言えばいい?こういう気持ちはどう表せばいい?とっさの表現が出ずむむむと閉口してしまう経験はありませんか。僕にはあります。

 

適切なタイミングで適切な表現を導き出すためにできることはないか、ということを後に出てくる友人とあれやこれやと考えた結果、やっぱり書き続けるしかないよね!という脳筋回答にたどり着きました。そしてこのブログを立ち上げました。筋トレブログです。

 

筋トレをする上でまず大切な事。それは続ける事です。1000回の腕立て伏せを1日だけ頑張るのと、たとえ1日10回でもコツコツ続けるのでは、明らかに後者のほうが有効です。でも大半の人にとっては後者の、続ける事のほうが難しい。

 

そして筋トレをする上で次に大事な事。もうなんか筋トレブログの意味合いが変わってきている感じがしないでもないですがこのまま続けますね。それはより目的意識を持ってトレーニングをする事。だと思います。同じ腕立て伏せでも、ただ闇雲に上下運動を繰り返す行為よりも、例えば「腕相撲でムカつくあんちくしょうに勝つために」とか、そういうテーマ(目的意識)を持って取り組んだ方が1回あたりの効果も大きなものになります。そして続けやすい。

 

なので僕らはことばを使った筋トレをする上でのテーマを考えました。そしてその結果出てきたのが、「物事のルーツをたどる」ということです。ことばというツールを使って物事のルーツをたどる。語感も素晴らしいですね。

 

言わずもがな全ての物体、全ての事象にはそこにそれがある「理由」があります。理由というか「由来」というか「発祥」というか。なぜそこにあるのか。いつからあるのか。どうしてあるのか。そういったものって身の回りに(今このブログを読んでいる視線をちろっとよそに移してもらったらもうそこに)あるものです。ただ身の回りに「普通」にありすぎて、改めて意識することもなく、ただそこに存在している状態になっています。

 

そういった当たり前がそこにあるルーツを拾い上げて(観察眼を養う)、言葉にして(文章力を養う)、このブログで更新(説明力を養う)していきます。「○○力」というワードを使うと一気に安っぽくなりますが、それ以外に適当な言葉をまだ今は知らないので、とりあえずこのままにしておきます。

 

【簡単なルール説明】

・1日1トピック気になるもののルーツを調べる。

・それをブログに書く。

 

私、シモダとnadi(@ystk_boc)の2人で1日交代で更新していきます。そんな僕らのパーソナルなことについては追々ご紹介、するかもしれないですししないかもしれません。まずは立派なことば遣いになるための筋トレをメインにお送りします。

 

それではこれからしばらくの間、「ルーツの旅」に

何卒お付き合いの程よろしくお願いいたします。