デザインの旅
世界はデザインに溢れています。
今僕の目の前にあるパソコンもデザイン。
今右手で取ったコーヒーカップもデザイン。
今ガラス窓の向こうを通り過ぎていった自転車もデザイン。
自転車に乗ったおばさんが手を突っ込んでいる巨大なミトンみたいなハンドルカバーもデザイン。
この文字の一つ一つもデザイン。
人が偶然性によらず故意に作り出したものは必ず何かしらのデザインをまとっていると言って差し支えないでしょう。
デザインというと、最も広く一般に使われるのは「意匠」と同じ意味で用いられるケース。
大辞林第三版によると意匠とは「美術工芸品・工業製品などの形・色・模様などをさまざまに工夫すること。また、その結果できた装飾。デザイン」と定義されています。
しかし、デザインを物の見た目に関してのみの意味に留めることはあまりにも狭義的で、このことについては今更ここに書くまでもないくらい多く議論がなされています。
wikipediaからの引用になってしまいますが、デザインとは
「具体的な問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現すること」。
この定義はかなり装飾的なので当然後付け的解釈が入っているかと思いますが、これをある面で裏付けるのが、"design"という言葉のルーツには"dessin"(デッサン)と同じくラテン語の"designare"(デジナーレ)があるということ。これは"de"+"signare"という構造で、"de"は今の英語でいう"from"、"signare"は"sign"。
なので"design"(=designare)とは「記号から表現された『何か』」だと考えることができます。
つまりデザインとは、表面の記号の奥にある何か。そこにデザインの本質が潜んでいます。
僕は、デザインとは予定調和だと考えます。
真面目に「予定調和」の語義を調べようとしたところ、議論があさっての方向に行きそうだったので(気になる方はどうぞgoogleでご検索ください)、ここでは「因果関係の予想と実態に相違がないこと」と簡単に考えておきます。
(たとえば、食パンをくわえた少女漫画の主人公が道で見知らぬ同年代の少年とぶつかる→実は転校生→恋の予感、みたいなものです)
デザインとは見た目についての創意工夫のことだけではないと言いました。そして、デザインとは問題解決であるというのはもはやありふれた考えです。
しかし、この二つは相反するものではなく、むしろ二人三脚の関係にあるというのが僕の考えです。つまり、正しく問題解決を図っているデザインは必然的に、ユーザーにはその見た目が美しいと感じられる。なぜなら、見た目からその物の本質を理解することにストレスを感じないからです。
たとえば、iPhone。
基本的な動作は極めて単純明快で、直感的に理解し操作できるように設計されています。これはただ単にデザインがシンプルだからではなく、人の自然な動作や習慣を妨げないように綿密な分析をした上で最適なデザインがなされています。
iPhoneにそれまでのガラケーのような分厚い説明書がないのは、「見れば分かる」から。(少女が道でぶつかるのを)見れば、(少年と恋に落ちるのが)分かる。
これが予定調和です。
言いかえると、優れたデザインの条件とは、物の見た目から求められる解答が明らかであること、あるいはそれそのものが解答であることだと言えます。
この点でデザインと対立するものがアートという考え方です。
デザインが解答であることに対して、アートは問いかけです。
アートは答えを示さず、社会や人の心に課題や問いを投げかけ、かき乱します。だからしばしば、優れたアート作品の前で僕たちはどう行動していいかわからず、言葉を失い、場合によっては分かったようなフリをします。
デザインとは違ってそこに予定調和は存在せず、鑑賞者の動線が提供されていないからです。
ただデザイナーと呼ばれる人の中にも、たとえばファッションの分野ではコムデギャルソンの川久保玲のような、実際にはアート的な物をつくる人たちも存在します。
建築も一般的にはその中にいる人が快適に滞在できるようにデザインされるものですが、一部の建築家はデザインによる解答ではなく問いかけを重視し、きわめてアート的な前衛建築を生み出しています。
designと似た言葉に、"designate"という単語があります。
意味は「示す」。ここにもデザインの本質が顔を覗かせていますね。
周囲を見渡してみて、見渡さずとも目の前にある物をじっと凝視してみて、それがなぜそうデザインされているか。それは良くデザインされているか。
デザインのルーツに思いを巡らせてみるのも楽しいかもしれません。
nadi