ルーツの旅

ルーツの旅

世の中に溢れる様々なもの、の中から気になるものを拾い上げてそれのルーツをたどります。

魂の旅

なんだかいかめしいタイトルになってしまいました。

 

今日は魂(たましい)の話をします。

 

 

大辞林第3版によると、魂の意味は以下の通り。

人の肉体に宿り、生命を保ち、心の働きをつかさどると考えられているもの。肉体から離れても存在し、死後も不滅で祖霊を経て神霊になるとされる。霊魂。また、自然界の万物にやどり、霊的な働きをすると考えられているものを含めていう場合もある。 → たま(魂)
気力。精神。心。 「 -を打ち込む」 「 -を込めた作品」
他の名詞の下に付けて、そのものに特有の精神の在り方を表す。多く「だましい」と濁る。 「大和やまと-」 「船乗り-」
霊の宿る大切な品物。 「鏡は女の-だ」
精進髷しようじんまげ」に同じ。
天分。素質。 「筆とる道と碁うつこととぞ、あやしう-のほど見ゆるを/源氏 絵合
思慮。才略。 「御舅たちの-深く/大鏡 師輔

 

エジプト、ギリシャ、インド、中国など、地理的にも離れた多くの文明で、古代からいわゆる魂とよばれるものの存在が信じられてきました。

それは、科学技術の発達した現代でも変わることはありません。

 

死ぬことはやはりいつでも誰でも怖いものです。

その恐怖から逃れる術として人が生み出したものが、肉体が消滅しても生き続ける魂という存在への信仰なのでしょう。 

 

 

『21g』という映画があります。

「人の魂の重さは21g」という説から生み出された作品です。

この説は、ダンカン・マクドゥーガルというアメリカの医師による実験から広まりました。この実験で行われたのは、人間が死ぬときの重量の変化から魂の重さを計測しようという試み。彼は6人の患者と15頭の犬を使い、死ぬ前後での体重を計測しました。

実験の内容と測定結果の信憑性については、測定方法のずさんさや標本数の少なさから科学的には認められておらず、医師自身も計測に失敗した標本があったことを認めています。

しかし、ここから認められるのは近現代においてもスピリチュアルな「魂」という概念に人は心を奪われる生き物だということです。(魂に心を奪われるというのは、ちょっとねじれていてユーモラスな言い回しです。)

 

 

やまとことばとしての「たましひ」の語源は「玉しひ」。

「しひ」については諸説あるそうですが、一説では「し火」であるとも言われています。

「玉し火」。玉とは円で、完全なもの。火は熱を上げて燃えるもので、生命の象徴。

こう考えると、たましいとはそれ単体で完成されたもので、器である肉体の状態にかかわらず、絶えることなく燃え続けるものとして理解されていたと思われます。

 

だから人が魂について考えるとき、それは肉体に宿るものでありながらそこから離れることを前提としています。

 

 

「あこがれの人」という表現があります。

尊敬の意味で使われることも、男女の間の好意の意味で使われることもありますが、あこがれとは決して暗い気持ちではなく人肌のぬくもりを感じる、やわらかくあたたかい心情であることは、私たちの経験から明らかです。

 

「あこがれ」の語源である古語の「あくがれ」は大学入試の古文単語でも頻出の語彙だそうですが、もとの語義はいわば「心ここにあらず」。(日ごろ、誰かあこがれの人のことを想うときの気持ちを考えれば、ここで起きている語義の変化の理由はたやすく類推することができますね)

「本来いるべきところを離れて浮かれ出る」こと、そこから転じて「魂が肉体から抜け出ること」が「あこがれる」の元々の意味するところです。

 

 

つまり、魂が肉体を離れるという事象を中心に、ひとつには死という冷たく暗い事態と、その裏ではあこがれという温かく明るい心の動きが、表裏一体の関係をつくっている。

だから人が生まれ持った肉体は、それ自体は失うのは恐ろしい自分の居場所でありながらも、ときには何かに惹かれてそこから遊離しようとする魂を束縛するものになってしまうのです。

 

サードプレイスしかり、ストレスもなければ新しさもない普段の居場所から時には逃避したいという気持ちを、人はずっと昔から抱き続けてきたのでしょう。

 

 

ところで、寝ている間の金縛りに慣れると、自分の意思で幽体離脱ができるようになるそうです。

これはまた別の話。

 

 

nadi