文化人と表現と家の旅
テレビに出てくる「文化人」という肩書きの人たち。
「文化人」が職業だとするなら、それを生業にしている人に僕はちょっとした憧れを感じています。ただ、文化人と一口に言われてもじゃあそれって具体的に何?というところがいまいち分からない。
Wikipediaによると以下のような職業が一般的に文化人と呼ばれるらしいです。
学者、大学教授
「かっこよさそうな職業一覧」みたいなリストですね。
大きく分けると、
・執筆活動
・芸術活動
・コンテンツの制作
・学問の研究
・デザイン
これらの行為に従事していることが、いわゆる文化人と呼ばれるための条件とひとまず考えて良さそうです。
さて、ここまで書きながら考えたことがいくつかあります。
表現とはたとえば執筆、作品の制作、それらでできたモノを通して、主観的な気持ちや客観的な情報を伝えようとすること。
「文化人」の語義を調べると、先に書いたような職業的観点からの意味とならんで「文化的教養を身につけている人」という意味も出てきます。しかし、身につけているだけではありません。そのバックグラウンドを元に自己表現を何らかの形で行なっていることが、文化人を文化人たらしめている骨子ではないでしょうか。
文化人とは、つまり脈々と受け継がれてきた「表現する」ことの歴史の中に身を置いて、責任を持って次にそのバトンを渡す人。文化のアーカイブから、想像と編集をもって新たな価値を生み出す人。
生物の生命維持に新陳代謝は欠かせません。
何も考えず生きているとどうしてもインプット過多になってしまうこの時代。たとえぼくらが文化人ではなかったとしても、ある程度の量のカロリーを吸収したのであれば、適切な運動で発散をする必要があります。この文章だってそうです。
表現をする人に憧れてしまうのは、だから当然のことなのかもしれません。
もう一つ。家(か)と士の違いについて。
(体系的に日本語や日本史を研究したわけではないので、これは単なる思い付きでの議論に終始してしまうことをご容赦ください。)
結論から言うと、僕の憧れる文化人とは「家(か)」ではないかと感じました。
最初に挙げた職業一覧を眺めていると、いくつかの「家」と少数の「士」が見受けられます。ここに僕は、家:士=インサイド:アウトサイドの対立構造を見ました。
「家(か)」は文字通り「いえ」ですから生来的にインサイド的香りのするもの。また、芸術家や作家など、表現のために大きなエネルギーをつかって自分のインサイドに向き合う職業が「家」と呼ばれます。
逆に、「士」は一文字で武士を表すことからも、アウトサイド(アウトドア)な性質を帯びています。また、武士という職業が自分本位でなく、自分以外の権力や機関から認められて、権利と義務を与えられて初めてそう名乗れるものであったこと、そして現代の「建築家」に対しての「建築士」という言葉の意味からも明らかなように、「士」はアウトサイドとの関わりの中でみとめられる職業であるといえます。
だから、家(か)とつく職業にはその人の意思が感じられるのです。
人に決められるのではなく、やりたいからやる。これが家(か)に対する憧れの正体かもしれません。
宇宙が好きです。
誰でも宇宙飛行家になれる日が、生きているうちに来てほしいものです。
nadi