お手洗いとメトニミーの旅
「お手洗い」
「鍋」
「ホワイトハウス」
「太宰」
何のことだかお分かりでしょうか。
「お手洗い」は「お手洗い」ではありません。
「鍋」はしばしば「鍋」ではないですし、「ホワイトハウス」は時折「ホワイトハウス」ではなく、「太宰治」が「太宰」ではないこともあります。
もう少し分かりやすくすると
「お手洗いを済ませる」
「今日の夕飯は鍋だよ」
「ホワイトハウスが声明を出した」
「近頃は太宰を読んでいる」
これらに含まれる「お手洗い」や「鍋」はいずれも文字通りの意味ではなく、「それに近い何か」を意味しています。
つまり、済ませたのは手を洗うことではなく用を足すこと、今日の夕飯は鍋の中で煮込まれた食材、声明を出すのはアメリカの国政に関わる政治家、読んでいるのは太宰治が書いた物語のことです。
日本語にかかわらず多くの言語体系では「実際にはAではないもの」に言及することで「A」を表す手法が広く根付いています。その手法の中で、現実世界での「類似性」に基づくものが「メタファー」と呼ばれる(「花子の胸はまな板だ」)一方、時間的・空間的・因果的な「隣接性」に基づくものは「メトニミー」と呼ばれています。
先述した例文では「用を足す→手を洗う」という時間の隣接、「鍋→中の食材」「ホワイトハウス→中の政治家」という空間の隣接、「太宰→物語を書く」という因果的隣接をもって、齟齬なく意味が聞き手に伝達されています。
疲れてきましたか?大丈夫ですか?僕はちょっと疲れてきました。
ところで、日本語と比べると英語の方がこのメトニミーのもつ力が強いのではないか?というのが僕の持論です。それは、「移動」を表す言葉に注目すると明らかです。
a. I went to school yesterday.
b. 私は昨日学校に行った。
これらはどちらも正しい文として許容されます。
しかし、以下はどうでしょうか。
c. I ran to school yesterday.
d. *私は昨日学校に走った。
cは英語話者にとっては何ら違和感ない文なのですが、僕たち日本語話者にとってそれを直訳したdは少し引っかかりがあります。「〜に走った」の部分ですね。
これがなぜかということについては諸説あるのですが、僕はこれがまさに2つの言語間のメトニミーの力の差であると考えています。
つまり、英語では"run"という単語が「走る→移動する」という時間的(もしくは因果的)隣接性を使って"to〜"という目的地を持つことができるのに対し、日本語ではメトニミーの作用が弱いため「走る」という単語もただ主体が「走る動作をする」ということしか指示できず、「〜に」という目的地を持てない、という仮説です。
これは"run"と「走る」に限った差ではなく、英語では"swim"=「泳ぐ」や"waddle"=「よたよた歩く」といった動詞だけでなく、"dance"=「踊る」、"rattle"=「ガタガタ鳴る」といった動詞までもが「to 目的地」という形を取ることができます。
俳句や短歌をはじめ、実際には違うものの姿にあるものを重ねて表現するというのが日本古来の言語表現の優美さだと感じるものの、実際には逆に英語の言語文化の中で培われてきた、日本語にはない表現の妙というものがあるのかもしれません。
いよいよ疲れてきたのでこのあたりでお手洗いに失礼して、今日はここまで。