ルーツの旅

ルーツの旅

世の中に溢れる様々なもの、の中から気になるものを拾い上げてそれのルーツをたどります。

行間と空気の旅

「行間を読みなさい。」

 

昔、国語の授業で事あるごとににこう教えられてきました。

 

文章の間から筆者の真意を汲み取る、この行為がいつ生まれたものなのか定かではありません。冒頭から根拠も自信もない推測をぶちまける事になりますが、「和歌文化の流行」と「階級社会」によって生まれたツールなのではないかというのが僕の個人的見解です。

 

大陸から入ってきた漢詩の影響を受けて、日本でも7世紀には和歌が詠まれていたようです。この頃から人々は言葉を使って自らの感情・心情を表現する遊びをしていました。言わずもがなですが、和歌の特徴はその文字数が限られていることです。一般的な短歌であれば「五七五七七」で完結させなければなりません。いちいち見たもの聞いたもの感じたことを全て書いてたら、とてもじゃないけど文字数に収まらないはずです。そのような制限によって言葉を削り取っていく工程の中で、行間が生まれたのではないかと思うわけです。

 

和歌の中でも、「愛」を伝えるものが多く残されています。ただ、直接的に「I love you.」なんて言ってるものはありません。そもそも「愛」という概念が日本にやってきたのは明治に入ってからとのことなので、その当時直接的な表現自体なかったのかもしれませんが。。。

 

面影は 身をも離れず 山桜 
心の限り とめて来しかど
夜の間の風もうしろめたくなむ

源氏物語「若紫」)

 

これは源氏物語の中でも一二を争う程有名な、光源氏が紫の上(若紫)に初めて会った時の心情を表した歌です。山桜は若紫のことを指しています。夜の間の風によって(花が散ってしまうのが)心配で仕方ない。「花が散る」とは他の男性に取られてしまうことの比喩です。回りくどい。

直接的な表現ではなく、余白の部分で心情を伝える。そこには秘密めいた美しさがあります。そしてその行間は書き手(詠み手)と読み手の信頼関係によって初めて成立する、一種の暗号のようなものでした。

 

と、いうのが文学表現としての行間。ここからは日常レベルに話を広げてもう少しこねくり回します。僕らは日々生活の様々なところで行間に触れています。そしてその行間の大半は、上に挙げたような美しい暗号ではありません。

 

「思っていることはちゃんと言いなさい。」

 

という教育を僕はこれまでずっと受けてきていました。多少のニュアンス違いはあれど、本屋に行けばこの類の自己啓発本をたくさん見かけるので、おそらく世間一般的な教育だと思います。昔に比べて関わる人間の数が爆発的に増えたからなのかもしれません。もしくは英語などの直接的な表現文化が入ったことによるものなのかもしれません。とかく言いたい事を言えない世の中は毒として認識されてきました。

 

全部が全部言いたいことだったらそれで良いけれど、実際はそうじゃありません。言いたくない事、言いづらい事、言わない方がいい事もあります。議論が苦手で、軋轢を嫌う日本人特有の用法なのかもしれませんが、現在はそう言ったネガティブの隠れ蓑として行間が使われているように感じます。言い換えるのであれば「空気」のようなものです。それを読み取れないとKY(空気が読めない人)として分類されてしまう。

 

前に挙げた文学的な行間が両者の信頼関係で成り立っているのに対して、現在の行間にはそれがありません。それはちょっとだけ寂しいことです。

 

確かに全てを語り尽くすことはとても気力体力が必要なことで、時にはものすごく面倒なことです。僕も校長先生の長話を聞くのは苦手でした。ただし、相手のことを思いやる気持ちのない行間を使うことは誰の幸せにも繋がらないんじゃないのかなって、ぼんやりとそう思います。だからこそ言葉を使うのは難しいです。

 

ポジティブな行間を、粋に扱えるようになりたい。

 

シモダ