ルーツの旅

ルーツの旅

世の中に溢れる様々なもの、の中から気になるものを拾い上げてそれのルーツをたどります。

ポップコーンとプルーストの旅

映画館の匂いが好きです。

 

ロビーに入るやいなや漂う、あのキャラメルポップコーンの匂い。

大抵はポップコーンもコーラも買わず、目当ての作品のチケットを買ってさっさと上映のシアターに入ってしまうことが個人的にはほとんどなのですが、あの幼いエンターテインメントな匂いが僕はたまらなく好きです。

 

僕の友人の映画マニアも含め、「映画上映中にポップコーンを食べる」ことへの批判はそこそこ多い気がします。たしかに、緊張感のあるシーンで横の席の客にボリボリとポップコーンを食べられたら、ちょっと気にはなってしまう。

 

映画館のポップコーン文化はいつ始まったのでしょうか?

 

物の本によると、ポップコーンが一般的なお菓子としてアメリカで知られるようになったのが19世紀半ば以降。特に、蒸気によってポップコーンを作る移動式の機械が1885年に発明されたおかげで、サーカスや縁日といったエンターテインメントの場で楽しまれるようにりました。トウモロコシの穀粒がはじけるポンポンという音が、そのままエンターテインメントとして捉えられたこともあったのでしょう。

 

ところが、数ある興行の中でも、当時ポップコーンの姿が見られなかったのが映画館でした。その理由には、当時映画館の館内は高級なカーペットが敷かれており、ゴミの出るものの持ち込みが禁止されていたことと、音を出すことに今以上に敏感であったことが挙げられます。

当時の映画は現在と違って音声のない無声映画

役者のセリフは音声ではなく字幕を読んで理解する必要があったため、必然的に映画興行のターゲットは教養のある(文字の読める)人に限定され、映画鑑賞は高級なエンターテインメントと認識されていました。もちろん、音を出すのが嫌われたことも同じく「無声映画」という特性を考えれば理由は明らかです。

 

そんな映画興行の場とポップコーンが出会ったのは1920年代。

音声が加えられたトーキー映画の公開と世界恐慌のタイミングが重なったのです。

映画館は庶民が束の間の娯楽を楽しむ場となり、5〜10セントで買えるポップコーンは物価上昇に苦しむ庶民でも手の届くちょっとした贅沢品として楽しまれるようになりました。

当初は映画館の近隣の屋台で商人が販売したり、その後は映画館が館内でのポップコーン販売権を商人に売ったりなどしていましたが、最終的には映画館が自らポップコーンを客に販売するようになりました。

さらにポップコーンが映画館に定着したのは第二次世界大戦の頃。

砂糖が不足したことでキャンディーのような甘いお菓子はそれまでに比べアメリカでも入手がし難くなり、(主に塩味の)ポップコーンがいつでも食べられるスナックとして人気を集めたそうです。

 

つまり映画館とポップコーンの蜜月関係は、映画技術の進歩という変化と、社会の動乱のさなかでも庶民にとって等価値であり続けた不変に、そのルーツを見出すことができます。

 

 

ところで、映画館の匂いが好きですと冒頭に書きました。

ポップコーンの甘くて香ばしい匂いが、映画館という場所の記憶と結びついているわけです。

 

匂いから過去の記憶が呼び起こされる心理現象は、フランスのある文豪の名前をとって「プルースト効果」と呼ばれています。彼の作品で主人公が紅茶にマドレーヌを浸した時に幼少期の記憶がよみがえる描写があることから、この名前が付けられました。

 

僕はこの感覚が大好きです。

みなさんも経験があるのではないでしょうか?

おばあちゃんの家の匂い、友達の家の匂い、教室の匂い、病院の匂い。

夏の夜の匂い、冬の朝の匂い、夕方の匂い、土曜の昼の匂い。

いつか読んだあの本の匂い、よく遊んでいたあの公園の匂い、左手に残ったあの子の匂い。

 

ちょうど今くらいの時期、朝、外に出て白い息を吐いてから思い切り息を吸い込むと、ひりっとした冷たい匂いがして、いつかのつらかったマラソン大会を思い出します。

 

嗅覚は五感の中でも特殊で、他の感覚とは違って人の記憶や感情、本能的行動を司る脳の部分に直結して伝わるそうです。

 

匂いを媒介にして、普段思い出すこともないような幼い記憶を、鮮明な情景ではないけれど鮮烈なイメージとして思い出すその時、僕はどうしてもノスタルジックでセンチメンタルな気持ちに心臓を掴まれるとともに、懐かしい友人と街中でばったり出会ったような嬉しさを覚えます。

 

今、どんな匂いがしますか?

その匂いで、いつかこんな文章を書いている誰かがいたことを思い出してもらえれば、そんなに嬉しいことはありません。

 

nadi