貨幣と夢の旅
僕は関西生まれの関西育ちです。
関西人(というか大阪人)の印象というと関西以外の方からはあまり良いイメージを持たれていないのだろうなあという変なコンプレックスがあります。声が大きいとか言葉遣いが汚いとか、押し付けがましいとか。
特に、大阪人はお金に関する話にはとても敏感です。近代以降、大阪は商人の町として成長してきた背景があるので当たり前といえば当たり前なのですが(関連して、中沢新一の『大阪アースダイバー』という本は大阪の地理と文化を歴史的側面も含めて分かりやすく読み解いており、おすすめです)、お金の話には何よりも食いついてしまうのが大阪人の特性です。
実際、土曜日の朝に放送している関西ローカル番組「せやねん!」は時事をバラエティ的に切り取る手法として「お金」を一つの切り口としており、15年以上一定の視聴率を獲得している長寿番組となっています。
ところでお金って何でしょう?
お金(貨幣)の歴史は古く、古代メソポタミア、インド、中国、エジプトなど、多くの代表的な文明で金銀を素材とした貨幣が鋳造されていたそうです。
大まかにいうと、貨幣は1929年の世界恐慌以前と以後に分けられます。
世界恐慌以前は、金や銀との交換を前提とされている(あるいは金や銀そのもので貨幣が製造されている)兌換(だかん)通貨が主でしたが、それ以降のトレンドとして、先進国の多くは貴金属との交換ではなく「貨幣の発行主体(国)への信用」だけがその貨幣(通貨)の価値を担保する不換通貨を採用するようになりました。
では、現代におけるお金の価値とは?
お金は食べられませんし、寒さも凌げません。千円札とか一万円札とかをたくさん集めて燃やせば束の間の暖は取れるでしょうが、多分そのお金を握りしめて電器屋でも行った方が、よっぽど賢く冬を越えることができます。
つまり、別に貨幣自体に物質的な価値があるわけではなく、「もはやなぜだかよく分からないけれどお金があれば生きることや贅沢することに必要なものを手に入れられる」という「共同幻想」を世界中の多くの人が当然のように受け入れて、生活のルールとして過ごしているわけです。
何かの宗教みたいでちょっと不気味ですね。
現代人が抱える共同幻想の呪いはお金に限ったことではありません。
「勉強ができた方が偉い」「コミュニケーションが苦手なことは克服されるべき欠点だ」「走るのが早いとかっこいい」「趣味がない人生なんて退屈だ」−そして「夢を持たねばならない」。
「努力で夢は叶う」なんて幻想です。小学校の授業では低学年から「将来の夢」というタイトルで作文を書かせます。そのときから「これ、夢とか言ってるけどたぶん叶わないよなあ」って内心思っていたのは僕だけではないと思います。
そのくらい、「たぶんこれは叶わない」と自覚してしまっていても、大それた夢を「きちんと」持っている風を装わないといけない「夢病」にこの国は長い間冒されています。
夢なんてなくてもいいんですよ。
「私の夢は〜」なんて頭でっかちな書き出しで物語ろうとするから良くないんです。
明日はちょっと早起きしてモーニングに行こうとか、今週末こそ撮り溜めていたドラマを見るとか、今度あの子をご飯に誘おうとか、きっとそんなのでいいんですよ。
そうしたら、多分昨日とか先週の自分とは何かが変わっているでしょう?
夢が職業じゃなくてもいいんですよ。
何か自分が好きなこととか、得意なこととか、人の役に立てることを継続してできたりたまに飽きたりできる環境があれば、それでいいんじゃないでしょうか。
ジャンプするだけが少年ではないのです。
nadi