ルーツの旅

ルーツの旅

世の中に溢れる様々なもの、の中から気になるものを拾い上げてそれのルーツをたどります。

猫の旅

猫が可愛い。

 

犬と双璧をなす愛玩動物界の人気者であり、「犬派?猫派?」は「kinkikidsは剛派?光一派?」と並んで初対面の相手にとりあえず投げる質問の頂点に未だ君臨しています。(ちなみに僕は堂本剛派です。)

 

街中で時折僕らの視線を奪ってくる猫。当たり前すぎて普段意識することはないですが、いつから僕らの暮らしの中に猫という存在がいたのでしょうか。

 

猫の最古の飼育例はキプロス島のおよそ9500年前の遺跡から発掘されています。また、系統的起源は紀元前3000年頃のエジプトで固められたとされています。果てしなく遠い昔から人間と猫は一緒に生活していたんですね。。。

 

さて質問です。犬と猫はどちらが先に家畜化しているかわかりますか?

(以下シンキングタイム)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正解は犬。

 

当たっても特に何もありませんが、これには僕らの祖先の生活様式が大きく影響されています。人類はもともと狩猟民族であり、火の誕生などにより農耕民族へとシフトしていった話は皆さんもどこかで聞いたことがあるかもしれないですし、以前別の旅で辿ったこともあるかもしれませんが。この「狩猟」から「農耕」への変化の中で人と動物の関わり方も変わっていきました。

 

狩猟犬や番犬は聞いたことがあっても、狩猟猫や番猫とは言いません。(狩猟猫、全部けものへんの漢字で構成されているのはちょっと素敵。)狩人のパートナーは犬と相場が昔から決まっていました。そこから時代が変わり、人々は穀物を農作するようになり、それを備蓄するライフスタイルをとるようになりました。そうすると保存している穀物を守らなければならず、穀物にとっての敵は害虫(特に鼠)でした。その鼠を撃退する役割を果たしたのが猫。猫は鼠や害虫は捕獲するものの、穀物に手をつけなかったので、益獣として人類に受け入れられるようになりました。猫にしてみれば人の言いつけを守って鼠を追いかけるのではなく、本能で動いていたのかもしれませんが、結果オーライですね。

 

穀物を守るという大義がなくなった今日に至っても、猫と人間の関わりは切っても切れないものになりました。イエネコの大半は現在養われることによって生活をしています。が、その中で穀物を守っている猫はそう多くはないはずです。

 

向こう10年で今ある仕事の大半がなくなるとも言われている時代だからこそ、「穀物を守る」という働き方を失ったのにもかかわらず、生活を続けている猫、いや猫先輩の生き方に学べるものはないか考えてみましょう。

先輩が穀物を守る働きの変わりに、現在我々人間に与えている対価を以下列記します。個人的見解なので異議異論は大いに認めます。

 

1.癒しの提供

何につけてもまずはこれでしょう。道端で見かけただけでも「かわいいいいいいいい」と言わせてしまうその存在感はもはや歩くエンターテイメント。見ただけでライフポイントを回復してくれます。そんなことしてくれるのは猫かホイミスライムくらいです。

 

2.相談相手

猫は寂しそうにしている人のところに寄ってくるという話を聞いたことがあります。本能的にそうしているのかもしれませんが、だとしたらもう天が授けしカウンセラースキルですね。猫に悩みを相談しても何も答えてくれないという反論があるかもしれませんが、こういう悩みの大半には答えは必要ないので全く問題ありません。むしろ黙って聞くのがだいたい正解です。合間合間に「にゃあ」と挟んだら完璧です。

 

3.可愛い

1とほぼ一緒ですが、大事なことなので2回言いました。

 

4.モデル

フレームの中に猫が収まっているだけでもう絵になる写真が撮れます。いやいやそんなことないでしょうという方はすぐに「猫」で画像検索してください。秒で癒されますよ。

 

他にも僕らが今後生活していくにあたってのヒントがたくさん散りばめられていそうな猫の暮らし。僕は猫を飼っていないので、実際に猫を愛玩されている方々のお話(うちの猫ちゃん自慢)を聞きたいものです。

 

あなたは犬派ですか?猫派ですか?

 

シモダ

数える旅

助数詞と聞いてピンとくるでしょうか?

 

「本」とか「枚」、「件」、「人」など、挙げるとキリがないですが、要するに物の数を数える際に数字のあとに付属する部分のことです。

本来の意味とはややずれるのですが、「単位」と呼ばれることもあります。

 

日本語はこの助数詞に関して特に豊富な語彙を持ち合わせている言語です。

長さや厚さなど形状に合わせて使い分けられたり、その物が持っている機能・特性など、様々な切り口から物の数え方が規定されています。

ある物が複数の助数詞と結びついていることも全く珍しいことではありません。

そしてほとんどの人が、高等教育を受ける以前から概ね正しい助数詞の使い方を理解し、意識せずとも使い分けている。これは、初めて日本語を学ぶ他言語話者などの目線で考えてみれば、驚くべきことではないでしょうか。

 

 

ユニークな助数詞の代表的なものといえば「丁」。

これで豆腐から拳銃まで対応できる、振り幅の大きい助数詞です。

「丁」は一文字で「偶数」の意味。賭けで使われる「半(奇数)か丁(偶数)か」の丁ですね。豆腐は、大きくつくったものを真ん中で半分に割ることから丁と数えられるようになったそうです。

そして拳銃を数える際の「丁」は実は「梃」(てこ、チョウ)を省略したもの。梃は今ではあまり使われませんが、槍、鋤(すき)、鍬(くわ)などの細長いものを数える際に使われます。なんだか切れ味の鋭そうなものばかりですね。

 

 

カバー範囲の広さでは、「基」に勝るものはありません。

井戸、エンジン、灯篭、墓石、神輿、信号機、ピラミッド、ベンチ、果ては人工衛星まで、すべて基で数えることができます。

「基」が一文字で意味するのは建物の土台=物事の礎。そこから、「据え置かれているもの」に共通の助数詞が「基」となったようです。

井戸などはもちろんのこと、神輿も祭りのとき以外は神社の中や専用の蔵に保管されていて、人間一人の手では到底動かすことができません。人工衛星は規定の周回軌道に据えられ、円運動を繰り返しています。

おもしろいのは魚のヒレも1基、2基と数えられること。たしかに魚の胴体に固定されていると考えると、分からなくはないです。ロボ魚みたいですね。

 

 

日本語の助数詞を特徴付けているのは、そのバリエーションの豊富さだけでなく、数え方の裏に物語性があること。

 

たとえばウサギは「羽」で数えられます。

羽は基本的には鳥を数える際にしか使われません。この理由には諸説あり、獣を食べることができない僧侶が2本足で跳ねるウサギを鳥だと主張するために1羽、2羽という数え方をしたという有名な説や、漢字で「兎鷺」(鷺は鳥の「サギ」)と書かれることで言葉の上では鳥類として扱われていたという俗説まであります。

 

「匹」よりも大きい動物のイメージがある「頭」。

たしかに牛やゾウは匹よりも頭のほうが馴染みが良いですが、警察犬だとチワワのような小型犬でもなんとなく頭で数えた方がおさまりが良く、意外なのは蚕(カイコ)も頭で数えるということ。

単に物理的な大きさだけでなく人との関わりの深さが、匹と頭を分けるひとつの境界線になっているようです。蚕は体は小さいですが、蚕の作る絹糸は古くから産業に欠かせないものでした。

 

そして日本人の食文化とは切っても切れない関係にある箸の数え方は「膳」。

膳とは一人前の食事を載せる台。つまり、食卓そのものと言えます。ひとつの食事をもって、ひと組みの箸を数える。以前の記事でも紹介したメトニミー的連想が働き、食という行為あるいは物語が箸の裏から顔を覗かせています。

 

 

日本の助数詞に固有の物語性は、英語と比較するとなお顕著です。

 

英語文法では基本的に助数詞という考え方はなく、"a ball"、"two balls"というように、名刺の頭に数詞をつけることだけで物の数的表現が可能です。

例外的に日本の助数詞に近い用法がみとめられるのが、不可算名詞と集合名詞。

前者はa piece of paper(1枚の紙)のような形。これはpaperなどのそれ単体では数えられないと定義されている名詞を数える際に使う表現です。

後者はtwo head of cattleのような形で表されるもので、cattleのようにもともとの語義が複数で、複数形のsなどがつかない名詞に対し使われます。

 

しかしこれらはいずれも、どうしても発生してしまうイレギュラーな表現を、元々あった統語規則に沿った形にするため便宜的に開発したような「機能感」が感じられ、非常に無機質なものになっているのです。

これに対し、日本語の数の表現はたとえば「頭」という助数詞に明らかであったように、ものと人との関わりにその呼び名を探る試みがされているように感じられるのです。

 

 

「数え方」に実は言葉の本質的な何かが隠されているのかもしれません。

 

 

 

「パンツ一丁」という数え方があります。

「パンツ二丁」はあまり聞いたことないですが、

丁という字は見事にうまくパンツを表しています。

 

nadi

 

 

 

行間と空気の旅

「行間を読みなさい。」

 

昔、国語の授業で事あるごとににこう教えられてきました。

 

文章の間から筆者の真意を汲み取る、この行為がいつ生まれたものなのか定かではありません。冒頭から根拠も自信もない推測をぶちまける事になりますが、「和歌文化の流行」と「階級社会」によって生まれたツールなのではないかというのが僕の個人的見解です。

 

大陸から入ってきた漢詩の影響を受けて、日本でも7世紀には和歌が詠まれていたようです。この頃から人々は言葉を使って自らの感情・心情を表現する遊びをしていました。言わずもがなですが、和歌の特徴はその文字数が限られていることです。一般的な短歌であれば「五七五七七」で完結させなければなりません。いちいち見たもの聞いたもの感じたことを全て書いてたら、とてもじゃないけど文字数に収まらないはずです。そのような制限によって言葉を削り取っていく工程の中で、行間が生まれたのではないかと思うわけです。

 

和歌の中でも、「愛」を伝えるものが多く残されています。ただ、直接的に「I love you.」なんて言ってるものはありません。そもそも「愛」という概念が日本にやってきたのは明治に入ってからとのことなので、その当時直接的な表現自体なかったのかもしれませんが。。。

 

面影は 身をも離れず 山桜 
心の限り とめて来しかど
夜の間の風もうしろめたくなむ

源氏物語「若紫」)

 

これは源氏物語の中でも一二を争う程有名な、光源氏が紫の上(若紫)に初めて会った時の心情を表した歌です。山桜は若紫のことを指しています。夜の間の風によって(花が散ってしまうのが)心配で仕方ない。「花が散る」とは他の男性に取られてしまうことの比喩です。回りくどい。

直接的な表現ではなく、余白の部分で心情を伝える。そこには秘密めいた美しさがあります。そしてその行間は書き手(詠み手)と読み手の信頼関係によって初めて成立する、一種の暗号のようなものでした。

 

と、いうのが文学表現としての行間。ここからは日常レベルに話を広げてもう少しこねくり回します。僕らは日々生活の様々なところで行間に触れています。そしてその行間の大半は、上に挙げたような美しい暗号ではありません。

 

「思っていることはちゃんと言いなさい。」

 

という教育を僕はこれまでずっと受けてきていました。多少のニュアンス違いはあれど、本屋に行けばこの類の自己啓発本をたくさん見かけるので、おそらく世間一般的な教育だと思います。昔に比べて関わる人間の数が爆発的に増えたからなのかもしれません。もしくは英語などの直接的な表現文化が入ったことによるものなのかもしれません。とかく言いたい事を言えない世の中は毒として認識されてきました。

 

全部が全部言いたいことだったらそれで良いけれど、実際はそうじゃありません。言いたくない事、言いづらい事、言わない方がいい事もあります。議論が苦手で、軋轢を嫌う日本人特有の用法なのかもしれませんが、現在はそう言ったネガティブの隠れ蓑として行間が使われているように感じます。言い換えるのであれば「空気」のようなものです。それを読み取れないとKY(空気が読めない人)として分類されてしまう。

 

前に挙げた文学的な行間が両者の信頼関係で成り立っているのに対して、現在の行間にはそれがありません。それはちょっとだけ寂しいことです。

 

確かに全てを語り尽くすことはとても気力体力が必要なことで、時にはものすごく面倒なことです。僕も校長先生の長話を聞くのは苦手でした。ただし、相手のことを思いやる気持ちのない行間を使うことは誰の幸せにも繋がらないんじゃないのかなって、ぼんやりとそう思います。だからこそ言葉を使うのは難しいです。

 

ポジティブな行間を、粋に扱えるようになりたい。

 

シモダ

魂の旅

なんだかいかめしいタイトルになってしまいました。

 

今日は魂(たましい)の話をします。

 

 

大辞林第3版によると、魂の意味は以下の通り。

人の肉体に宿り、生命を保ち、心の働きをつかさどると考えられているもの。肉体から離れても存在し、死後も不滅で祖霊を経て神霊になるとされる。霊魂。また、自然界の万物にやどり、霊的な働きをすると考えられているものを含めていう場合もある。 → たま(魂)
気力。精神。心。 「 -を打ち込む」 「 -を込めた作品」
他の名詞の下に付けて、そのものに特有の精神の在り方を表す。多く「だましい」と濁る。 「大和やまと-」 「船乗り-」
霊の宿る大切な品物。 「鏡は女の-だ」
精進髷しようじんまげ」に同じ。
天分。素質。 「筆とる道と碁うつこととぞ、あやしう-のほど見ゆるを/源氏 絵合
思慮。才略。 「御舅たちの-深く/大鏡 師輔

 

エジプト、ギリシャ、インド、中国など、地理的にも離れた多くの文明で、古代からいわゆる魂とよばれるものの存在が信じられてきました。

それは、科学技術の発達した現代でも変わることはありません。

 

死ぬことはやはりいつでも誰でも怖いものです。

その恐怖から逃れる術として人が生み出したものが、肉体が消滅しても生き続ける魂という存在への信仰なのでしょう。 

 

 

『21g』という映画があります。

「人の魂の重さは21g」という説から生み出された作品です。

この説は、ダンカン・マクドゥーガルというアメリカの医師による実験から広まりました。この実験で行われたのは、人間が死ぬときの重量の変化から魂の重さを計測しようという試み。彼は6人の患者と15頭の犬を使い、死ぬ前後での体重を計測しました。

実験の内容と測定結果の信憑性については、測定方法のずさんさや標本数の少なさから科学的には認められておらず、医師自身も計測に失敗した標本があったことを認めています。

しかし、ここから認められるのは近現代においてもスピリチュアルな「魂」という概念に人は心を奪われる生き物だということです。(魂に心を奪われるというのは、ちょっとねじれていてユーモラスな言い回しです。)

 

 

やまとことばとしての「たましひ」の語源は「玉しひ」。

「しひ」については諸説あるそうですが、一説では「し火」であるとも言われています。

「玉し火」。玉とは円で、完全なもの。火は熱を上げて燃えるもので、生命の象徴。

こう考えると、たましいとはそれ単体で完成されたもので、器である肉体の状態にかかわらず、絶えることなく燃え続けるものとして理解されていたと思われます。

 

だから人が魂について考えるとき、それは肉体に宿るものでありながらそこから離れることを前提としています。

 

 

「あこがれの人」という表現があります。

尊敬の意味で使われることも、男女の間の好意の意味で使われることもありますが、あこがれとは決して暗い気持ちではなく人肌のぬくもりを感じる、やわらかくあたたかい心情であることは、私たちの経験から明らかです。

 

「あこがれ」の語源である古語の「あくがれ」は大学入試の古文単語でも頻出の語彙だそうですが、もとの語義はいわば「心ここにあらず」。(日ごろ、誰かあこがれの人のことを想うときの気持ちを考えれば、ここで起きている語義の変化の理由はたやすく類推することができますね)

「本来いるべきところを離れて浮かれ出る」こと、そこから転じて「魂が肉体から抜け出ること」が「あこがれる」の元々の意味するところです。

 

 

つまり、魂が肉体を離れるという事象を中心に、ひとつには死という冷たく暗い事態と、その裏ではあこがれという温かく明るい心の動きが、表裏一体の関係をつくっている。

だから人が生まれ持った肉体は、それ自体は失うのは恐ろしい自分の居場所でありながらも、ときには何かに惹かれてそこから遊離しようとする魂を束縛するものになってしまうのです。

 

サードプレイスしかり、ストレスもなければ新しさもない普段の居場所から時には逃避したいという気持ちを、人はずっと昔から抱き続けてきたのでしょう。

 

 

ところで、寝ている間の金縛りに慣れると、自分の意思で幽体離脱ができるようになるそうです。

これはまた別の話。

 

 

nadi

 

焼酎の旅

最近、焼酎の沼に嵌りつつあります。

 

若者を中心に酒離れが進みつつある世の中で、あえて今お酒の話をすることにどれだけの意味があるのかはわかりませんが、そもそもここに書いて与えている影響なんて砂浜の砂一粒にも満たないほど小さなものだと自負しているので、書かせていただきます。

 

そもそも焼酎とは蒸留酒(↔︎醸造酒)の一種で、その中でも以下の条件を満たす酒類のことをいいます。

発芽した穀類を使用していない。(ウィスキーとの区別)
白樺の炭などで濾過していない。(ウォッカとの区別)
蒸留時に別途定められている物品以外を添加しない。
アルコール度数が連続式で36度未満、単式で45度以下である。

 

ここはテストに出るわけでもないので、覚える必要は全くありません。むしろ酒の席で薀蓄たれると煙たがられることもあるかもしれないので、忘れましょう。

 

世界的な焼酎の起源については未だよくわかっていないものの、日本では14世紀中頃、当時中国から琉球に「南蛮酒」という蒸留酒の形で伝来したと言われています。その後国内では1546年に薩摩国ポルトガル商人が米焼酎を飲んだことが記録として残されており、少なくともその頃から蒸留酒が存在していたことがわかっています。今も焼酎文化が九州を中心に根付いているのは、そもそも当時の外国文化の入り口によるものなんですね。

鉄砲伝来も種子島ですし、当時南蛮渡来のものはまず琉球薩摩とかその辺りに伝わってそこから日本に広がっていったとすると、日本の最先端が九州だった時代もあったんだと嬉しく思います。(九州出身)

 

そしてその後日本で度々訪れる焼酎ブーム。70年代の第一次焼酎ブーム(薩摩白波)はまだ生まれていなかったのでわからないものの、それ以降はテレビCMでもよく見ていました。九州に住んでいたので他地域よりも放映頻度が高かったのかもしれませんが、二階堂や白波のCMはものすごく印象に残っています。

いいちこ(下町のナポレオン)に代表される80年代の第二次ブームで焼酎は大衆の(中でも若者が飲む安価な)お酒として広く認知されるようになりました。この当時はまだ未成年だったのでお酒のお世話にはなっていませんでしたが、もしこの時大人だったらバブル経済の最中でどれだけ飲んでいたかわかりません。当時成人していた人たちはどうだったんでしょうか。

2000年に入ると芋焼酎ブームがやってきます。ナイナイ矢部さんがテレビのバラエティ番組で旨いと言ったことで黒霧島が爆発的に流行したのは有名な話。魔王・森伊蔵・村尾は芋焼酎界の「3M」と呼ばれ、プレミアがついて入手困難、定価以上の高額でやり取りされるようになりました。

 

こうやって変遷を見ていくと流行の広がり方が変わってきている様子がわかります。今みたいにネットが普及していない時代はまだテレビCMが重大な影響力を持っていて、販売者から購入者への一方向的な消費煽動がされていました。キャッチコピーが全て、みたいな時代がおそらく当時あったのでしょう。

そこから技術が進歩するにつれて双方向的なコミュニケーションが可能になり、いわゆる「口コミ」の影響力が高まる方へシフトしていってます。有名人とか好きな芸能人、もっと言えば周りの友達なんかが勧めた商品の方を買いたくなってしまう。みんなが欲しいって言ってるものはとりあえず自分も欲しいから自ずとプレミアが付いてしまう。

そんな最中で録画機器の発展も相まって、テレビCMはチャプターによって切り取られとばされてしまう「無駄な時間」になってしまいました。

・・・そう考えると最近印象に残ってるCMってあんまりないです。(テレビ自体見る頻度が減ったのもあるかもしれませんが)

 

そんなこんなで飲み継がれている焼酎ですが、なんかやっぱり僕らの世代(やもっと若い世代)ではイマイチ流通していないというか良さが伝わっていないような気がしていて、それを砂浜の中で憂いています。なぜでしょう?

 

今パッと脳裏に浮かんだだけでも書き出したら終わりなき旅になりそうです。とはいえ皆さんもそろそろ読み疲れてきたと思うので、一つだけ挙げるなら、その「飲み方の難しさ」にあると思います。こだわりだしたらキリがないというかなんというか。

 

これはあくまで個人的経験レベルの話なんですが、大半の居酒屋で頼む焼酎(特にお湯割)ってあんまり美味しくないんですよね。中には本当に素晴らしいお湯割を出してくれるお店もありますし、そういう所ではむしろお湯割を頼みます。が、そうではない熱湯とりあえず入れときました系で出すお店ではなるべく他のお酒を頼むようにしています。

 

焼酎蔵の方々は精魂込めてお酒を造られています。けれどそうやってできた焼酎をストレートで飲むことはあまりなくて、氷や水やお湯を入れることが殆どです。造り手がつくったものに手を加える。飲む前にその一工程が必要になります。そしてそこが本当に難しい。

すでに出来上がっているものに何かを加えることはとても繊細な作業です。そもそもの状態が素晴らしいものであれば、尚更に。どれだけプレミアがついた有名なお酒でも、その後の工程で台無しになってしまうことは多々あります。そしてそれをネームバリューだけで美味しいと見なしてしまうか、疑問点を持つかは僕ら飲み手が考えること。

 

お酒は難しいことを考えずに楽しく飲めるのが一番だと思いますが、ほんのちょっと視点を変えてみるだけでもより美味しく、より楽しく味わえることができる面白い素材です。これは別に焼酎に限った話でもないですが、「考える材料にする」のが物事を楽しくするヒントになるのかもしれません。

 

ブームに踊らされるんじゃなくて、

自らの意思で踊る人間に僕は憧れます。

 

シモダ

文化人と表現と家の旅

テレビに出てくる「文化人」という肩書きの人たち。

 

「文化人」が職業だとするなら、それを生業にしている人に僕はちょっとした憧れを感じています。ただ、文化人と一口に言われてもじゃあそれって具体的に何?というところがいまいち分からない。

Wikipediaによると以下のような職業が一般的に文化人と呼ばれるらしいです。

 

著作家、小説家随筆家評論家コラムニスト文筆家

俳人詩人歌人

学者、大学教授

占い師マジシャン

画家書家写真家陶芸家彫刻家建築家

映画監督脚本家演出家プロデューサー

漫画家漫画原作者

作詞家作曲家、演奏芸術家、ミュージシャン

歌手俳優

囲碁棋士将棋棋士

宇宙飛行士

デザイナー

ファッションモデル

 

 「かっこよさそうな職業一覧」みたいなリストですね。

大きく分けると、

・執筆活動

・芸術活動

・コンテンツの制作

・学問の研究

・デザイン

これらの行為に従事していることが、いわゆる文化人と呼ばれるための条件とひとまず考えて良さそうです。

 

 

さて、ここまで書きながら考えたことがいくつかあります。

 

 

まず、文化人とは表現者であるということ。

 

表現とはたとえば執筆、作品の制作、それらでできたモノを通して、主観的な気持ちや客観的な情報を伝えようとすること。

「文化人」の語義を調べると、先に書いたような職業的観点からの意味とならんで「文化的教養を身につけている人」という意味も出てきます。しかし、身につけているだけではありません。そのバックグラウンドを元に自己表現を何らかの形で行なっていることが、文化人を文化人たらしめている骨子ではないでしょうか。

文化人とは、つまり脈々と受け継がれてきた「表現する」ことの歴史の中に身を置いて、責任を持って次にそのバトンを渡す人。文化のアーカイブから、想像と編集をもって新たな価値を生み出す人。

 

生物の生命維持に新陳代謝は欠かせません。

何も考えず生きているとどうしてもインプット過多になってしまうこの時代。たとえぼくらが文化人ではなかったとしても、ある程度の量のカロリーを吸収したのであれば、適切な運動で発散をする必要があります。この文章だってそうです。

表現をする人に憧れてしまうのは、だから当然のことなのかもしれません。

 

 

 

もう一つ。家(か)と士の違いについて。

 

(体系的に日本語や日本史を研究したわけではないので、これは単なる思い付きでの議論に終始してしまうことをご容赦ください。)

結論から言うと、僕の憧れる文化人とは「家(か)」ではないかと感じました。

最初に挙げた職業一覧を眺めていると、いくつかの「家」と少数の「士」が見受けられます。ここに僕は、家:士=インサイド:アウトサイドの対立構造を見ました。

 

「家(か)」は文字通り「いえ」ですから生来的にインサイド的香りのするもの。また、芸術家や作家など、表現のために大きなエネルギーをつかって自分のインサイドに向き合う職業が「家」と呼ばれます。

逆に、「士」は一文字で武士を表すことからも、アウトサイド(アウトドア)な性質を帯びています。また、武士という職業が自分本位でなく、自分以外の権力や機関から認められて、権利と義務を与えられて初めてそう名乗れるものであったこと、そして現代の「建築家」に対しての「建築士」という言葉の意味からも明らかなように、「士」はアウトサイドとの関わりの中でみとめられる職業であるといえます。

 

だから、家(か)とつく職業にはその人の意思が感じられるのです。

人に決められるのではなく、やりたいからやる。これが家(か)に対する憧れの正体かもしれません。

 

 

 

 

宇宙が好きです。

誰でも宇宙飛行家になれる日が、生きているうちに来てほしいものです。

 

nadi

 

 

 

村と共同体の旅

世界がもし100人の村だったら

 

こんな本が流行った時期が一昔前にありました。

 

細かな内容はびっくりするくらい覚えてないですが、世界の中で〇〇な人は100人中何人みたいに人口の割合を示す本だったはずです。もし違ってたらごめんなさい。

何十億人のうち何千万人って言われると自分のこととしてイメージできないような話でも、百人中何人にすることでなんとなくの規模感がわかる。ものすごく面白い物の捉え方だなってその当時目からウロコを落とした記憶があります。(本の内容は全く覚えてないですが)と、同時にその100人の集団を「村」と表現しているところにひどく胸がときめいた記憶があります。

 

思えばその頃から僕は「村」という括りに対して並々ならぬ感情を持つようになり、理想の集団や組織像について考えたり人に伝えたりする時にはよく「村」という単語を使うようになりました。ことあるごとに「むらづくりをしたい」なんてことを言っていたから、聴く人が聞いたら頭おかしいと思われていたかもしれません。皆が優しくて助かりました。

 

そもそも「村」ってなんなんでしょう。

 

今現在の生活区分、自治体としての村(市町村)は明治時代、中央集権化が進められたことにより行政的な分類が必要となったため作られたものだと言われています。今でこそ当たり前のようにありますが、もし分類が都道府県までしかなかったら、誰かに手紙一枚送ることもできません。その他色々な面で今日の生活に必要な「住所」としての分類があります。あって良かったです。

 

一方でそれまでに形成されていた村は「自然村」と呼ばれ、それはあくまで共同生活を行う一まとまりの集団のことを指していました。日本史を学んでいた人であれば記憶にあるかもしれませんが、中世日本における惣(惣村)も百姓が自主的に共同体を形成していることから、自然村のひとつの形として考えることができます。地域で生活を共にしていた人たちが、その中で個別の規則やしきたりを作っていく過程でできた集団であり、地縁の影響を大きく受けるものでした。

 

ふたつの村が出てきてわかりにくいので、ここからは行政村を「村」、自然村を「ムラ」として話を進めていきます。

 

昨今、共同体としてのムラが再び注目を集めているような気配がします。ムラっていうよりコミュニティなんかの単語の方がしっくりくるかもしれません。

 

その背景には行政としての村(国や県など)に対する大多数の人々の認識が変わってきていることがあり、その認識の変化がより大きい人ほどムラを求める傾向にあるんじゃないかというのが今のところの僕の見解です。

 

かつてはその地域に生まれてその地域で育ち、その地域で働き、その地域で死ぬ。そういう土着的な生活が一般的でした。今の僕らの祖父母世代や、下手したら親世代もそうかもしれません。転校生は珍しいし、県外は旅行で行くところだし、ましては国外で働くなんてよほどのエリートでなければ考えられなかったはずです。

 

でも今はそうじゃない。日本にとどまらず世界各地の人が故郷を離れて世界各地で生活をし、働き、死んでいく。そういうスタイルが当たり前になっています。「故郷は遠きにありて思うもの、帰るところにあるまじや」と室生犀星の詩がありますが、今となってはそれがもはや当たり前の考え方になっています。

 

そういう「村意識」の薄れが今日の生活の中では至る所に感じられ、「帰るところ」としての村が僕らの前からどんどんなくなっていきました。そしてそれと引き換えに僕らはどこででも生活できる自由を手にすることができました。

 

自由は時に恐怖にもなります。僕ら人間はひとりではなにもできません。疲れた時に羽を休める場所は欲しいし、錦を飾る場所も必要。誰かのために頑張りたいし、より良い暮らしを求めて周囲と協力したいし、競い合いたい。そんな様々なモチベーションの行き着く先として先にあげたムラ(共同体)の必要性が出てきたと、僕は今感じています。

なんだって一人でやるより誰かとやる方が楽しいです。

 

ルーツを辿る旅から脱線甚だしいので、この辺で筆をおきます。が、話はまだまだ尽きませんし、今読んでくれているあなたとも改めて楽しいムラづくりの話がしたいです。

 

あなたならどんなムラを作りますか?

 

シモダ